「もう、死にたい」とおっしゃる方に対してどのように返事をしていいかわからないとおっしゃる介護職、看護職の方からの悩みの声をお聞きすることがしばしばあります。この内容についてはかつて書いたことがあります。

死にたいという方にどう答えるか?

死を話題にする人にどう対応するか、ということについてはなかなか難しいものです。「死にたい」という人は本当に死にたいと思っているかどうか?というと、死にたいと思っているというよりは「死にたいほど苦しい」のだろうと思います。

「先生ね、私、もう、ほんまに死にたいんですわ」とおっしゃる方。
夜の時間帯に私に電話をしてこられ、往診の希望を尋ねると「往診してほしい」と求められます。
本当に死にたいとおっしゃるのであれば私を呼ぶことはないのだろうと思いますが、私を呼ばれます。
お話をお聞きします。
私はこの方の言葉をそのままなぞりながらお聞きします。
「もうね。死にたいんですわ。」
「そうか。もう、死にたいと思うくらいしんどいねんね。体も、もう、こんなしんどいし。気持ちももう、本当にしんどいんやね」

「私の持っているあれとこれ、私が晴れて死んだらね、棺桶に入れてほしいんです。あれをあの世にもっていって、また一からやり直したいんです。」
「自分が晴れて死んだら、そんな風に思うねんね。そしたらあれとこれをもっていって、また一からやり直したい、やり直したいんやね。」

「今私がいるところ、あそこも行くのやめたいんです。私一人みんなと違う。みんなの顔を見られへん」
「自分一人みんなと違うって思うんやね。みんなの顔、見れへんねんな。」

苦しい、悲しい、認められたい、愛されたい、自分の存在は無意味でむしろ邪魔な存在だ、こんな人生をやり直したい、そんな苦しみ。
体の不調、食べられなさ、すべてが苦しい。

こんな人生なら、もう、終わらせたい。
そんな思いでいながら、私を呼び、脱水を補正することを求める。
生きたい、しんどい症状を取ってほしい。

「死にたいと思うなら私を呼ばないで、脱水のまま食べられないまま数日たてばすぐに死にますよ」という事実はこの人にとって求めるものではないのでしょう。

「死にたい」というのは死を希望しているわけではないのでしょう。
自殺企図をする人もいますし、実行する人もいます。
でも、本当は「この死にたいほどの苦しみを解決したい」というのが真の気持ちなのだと思います。

実は私は抑うつ的な時期もあり、そのころ、吸い込まれるように死に近いときがありました。
高層階の外廊下を歩くと、そのまま下に飛び降りることを衝動的に欲するような気持ちがありました。
うつ状態になると死に引き寄せられるというのは、経験者ならあるのはわかってもらえると思います。
ですから、「死にたい」と言っても実際に死ぬわけではない、ということはなく、発作的に自死を求める人もいますし、計画的に自死に至る人もいます。
「死にたい」という言葉を軽く反復でいなすだけでいいというものではありません。

自分の存在を賭けて、本気で向き合いながら「死にたい」のではなく「死にたいほど苦しい」気持ちを「聞いてもらえた」と思える支援をする以外に私には何もできないのです。
結果として死を選ぶ人がいます。実際にいます。そのときには本当に何もできないことにうちのめされます。それは私には何も変えられない、その無力さを思い知らされます。
それでも、自分ができることをするしかありません。
専門医につなぐ、つなぐことができなければ自分ができる範囲の薬物療法をする、話を聞く、体の調子を整えて心の追いつめられる状況が変わらなくてもせめて体のしんどさを軽くする。
書いていても「ああ、自分は何もできないな」と思うのですが、何もできない自分ができることを精一杯する以外にありません。
もう一つできることがあるとすると、多職種で連携して見守りの目を1 対 多職種それぞれ、の構造ではなく、1をとりまく多職種の輪、の構造にすることでしょうか。
私は何もできないし、みんなも何もできないのですが、みんなで愛情を向け続けることはできるかもしれません。自分一人だと向き合うのがつらくなってきますが、みんなと一緒ならがんばれるかもしれないからです。