ここの所公私多忙にて更新できませんでした。

仕事は仕事で普通に新規の患者さんがご紹介していただけて忙しくしておりました。自分のプライベートのほうでは自分の母が乳がん末期状態でありまして、最終的に私が主治医となって看取りをしましたのでそれはそれで新規癌末期患者のショートコースとしていつものごとくあわただしく忙しい日々になり、なおかつ家族の患者としての忙しさがくっついてきておりました。

実母を看取るという経験をしましたので記憶が新しいうちにアップしておきます。

母は大変明るい人でその明るさはやや病的と言ってもいいほどです。「病的」などと照れや謙遜で言っているわけではない、というのは実際の本人を知っている人ならわかることと思うのですが、この病的な明るさは最期の最期まで保たれていました。それははたで見ている家族にとってもありがたいことでした。

2016年の9月ごろ、しつこい咳を主訴に近医を受診したところ、おそらく肺に影があったのでしょう、大きな病院で診てもらってと地域の中核病院に紹介されました。その病院で11月に右乳がんおよび腋下リンパ節、胸骨傍リンパ節転移の診断となりました。組織診断ではトリプルネガティブというホルモン療法が効かないタイプのものでした。また、グレードを判定する補助因子として細胞増殖能(MIB-1 index)というものが用いられますが、このMIB-1が80%というものでした。MIB-1は増殖能を有する腫瘍細胞核だけに発現するので、100個の腫瘍細胞の中で5個にMIB-1が発現していれば5%の陽性率となります。まだグレードにはっきり定義は決まっていないようですが一般にグレード1は0-2%、グレード2は2-5%、グレード3は5-20%、グレード4は20%以上を示すということです。母のものは100個の細胞のうち80個もの増殖能をもつ細胞で構成されたもの、ということだったみたいです。

治療方針としては転移があるのでまずは化学療法をし、そこで化学療法が効いてきたら手術に持ち込む、というものでした。化学療法というのは誤解を恐れずに言いますと「毒」を投与するものです。細胞分裂するところを狙って毒を与え、細胞分裂をする細胞を死滅させます。したがって増殖能が高い毛根の細胞なども共に障害を受けるので脱毛してしまうのです。母の癌はMIB-1が80%と80%が増える細胞からなるやつら、言ってみれば化学療法で80%がダメージを受けるターゲットになってくれるわけですから化学療法がとても効きやすいタイプなのです。実際に化学療法は著効し、腫瘍は退縮しました。ここで母は「化学療法なんてやってたら病気になるわよ」と自己判断にて治療を中断してしまいます。まあ、母らしいことです。化学療法をやめたと聞いて私は絶句しました。

「それより、この乳酸菌、とってもカラダにいいのよ~」というのを聞いて「体にいいとかいうならまず一番体にいい化学療法受けんかい!」と思いましたが言っても無駄だと思って黙っておりました。

母は大変変わった人で、天使と悪魔が同居しているような人物なのです。やや本気で宇宙人の存在を信じていたり、ほにゃらら人の陰謀説とか、昔やっていた何とかスペシャルのような話が大好きだったり、「滅亡した大陸の名前」を冠した雑誌の愛読者だったり、という人です。健康と美容に非常に気を使っており、高価な健康食品を惜しみなく買っては飲んでいるのです。考え方も極端で変わっています。その人にあまり常識的なことを言っても届かないのは46年の付き合いで私はわかっていますからもう何も言いませんでした。

その後やはり明らかに体表から触って分かるくらいに腫瘍が広がり痛みも出てきたようで、治療中断から3か月くらいで病院に戻ったそうです。4月に治療再開、6月にいったん治療終了、7月からまた次の治療の予定となっていました。7月の半ばにめまいとふらつきで元の病院に入院となりました。MRIでの診断の結果は脳転移による癌性髄膜炎でした。

私は乳がんの脳転移から脊髄に転移して四肢麻痺になった方も知っていますし、生命予後を保つより生活の質を保つために脳への放射線療法を勧めました。その時はそれもそうかという返事でしたが、やはり最終的には治療を拒否、緩和治療を希望し退院しました。基幹病院の先生方は熱心に治療を勧めてくださいましたが、先生方には「先生、本当にあの人、変わってるし、聞かないです。たぶん父ももう治療しないという本人の希望を聞き入れるでしょうし、積極的治療をしなくていいんです。現代医療に対する根拠なき不信感も強いですし、治療をさせるのは無理です。」と伝えました。これで私も医師なのに積極的治療を勧めようとしない変わり者一家の一員と思われることでしょう。確かに私は変わり者だけどあの人たちと一緒にされたくないのだけどな。残念ですが仕方がありません。

自宅の近所に私と同じく麻酔科出身で在宅医療に力を入れておられるクリニックがありましたので、そちらの先生に初めてお目にかかり、日ごろわがままな両親が大変お世話になっていることへのお礼と今後のお願いをいたしました。基幹病院からの紹介状を改めて持ってくるので今後主治医となっていただきたいとお願いしたところ快諾いただきました。そこで先生は「しかしね、お母さん、『これからは癌と一緒に生きていきます』って言ってました。生命予後の短さを理解されていないと僕は思いました。まあ、あまり本当のことを言いすぎてやる気をくじくのもなんだろうかと思って反論しませんでしたが、病識がないことはご家族として知っておいてください。」と教えてくださいました。やはりね。わかってないな。自分がもう、本当にもう死ぬんだってわかってないな。

家に帰ると母とはまた違うタイプの変わり者かつ自己中心的な父が母に怒っておりました。父は透析患者なので透析後などはふらつきが出て自動車の運転が危ういので母が運転していました。ところがこの日母に運転を頼むと母が断ったと言って怒っておりました。「なんだ、お前、もう、俺にためには一生運転しないってことか!どういうことだ!俺はお前が運転しなかったらどこにも出かけられないではないか!」という内容を泉州弁でまくしたてておりました。

ああ、この何も理解していない夫婦に何をどこから説明したらいいものやら。脳転移からめまいとふらつきを訴えてとりあえず脳浮腫をとる治療だけ受けて帰ってきたばかりの母に運転せよと命じる父への怒りと、このあと起こる激流のような速さに翻弄される日々についてまったくわかっていない家族に説明しなくてはいけないことと、自分自身が感じている悲しみとで私は半泣きになってどなりました。

「あんたら、何もわかってない、このあと、どれだけ事が早く進むか、わかってない。残された時間は本当に少ないんだってこと、わかってない。もう、この人、死ぬんやで?もう、何週間かで死ぬんやで。もう死ぬ人に向かって運転しろとか言わんといて。そんなんもう無理やから。もうね、この人、死ぬの。すぐに死ぬの。びっくりするくらい早いんやから!」

まあ、本人の前でこんなこと言うのは本当に駄目なんです。本人の前で死ぬ死ぬってね。でもあの二人にはちゃんとはっきり話さないと理解しないので、本人たちのキャラクターを考えると言わないとだめだと思います。またこれくらい言ったところで落ち込む母ではありませんのでね。実際にあとから聞いてもまったく落ち込んでなくて「アタシ、死なないわよ」と言ってたんだそうですよ。大丈夫。もっと言ってもよかったです。

今後の生活について話し合いました。介護ベッドが必要であること。これを「不要」という母でしたが「数日で必要になる」と断言しました。さらにヘルパーが必要です。脳転移のことで入院となった時から介護保険を申請するように言ってたのに介護保険の申請もまだ途中で、ケアマネジャーさんが来るのもまだ次の週だというのでした。それだと主治医意見書ができるのがお盆明けになってしまうと懸念されましたのでケアマネさんに私から直接電話して、病状(父、母の理解している病状で説明すると事の動きが遅くてたまらないので)を説明し、非常に早い展開になると予想されるのでとりあえず申請をかけてほしいとお願いしました。この日7月29日。ケアマネさんが動いてくれるのが8月1日というのでそれでお願いしました。この前の週に私は京都での療養も視野に入れてサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)の見学に行っておりましたので、この施設のパンフレットも渡しましたが「おいおい時期が来たら考える」と軽く返されました。「オイオイ・・・その時期が今なんだってば」と思いましたが、この二人は本当に困らなければ何を言っても無駄ということもわかっているのでそれ以上何も言いませんでした。

8月1日、ケアマネさんが動いてくれる日でした。この日の午前5時ごろ、父から電話がかかってきました。自己中心的な父は深夜早朝に電話をかけてくるので慣れてはいるものの私はいつものように不機嫌でした。父が言うには「こいつ、ほんまにもうアカンぞ。夜中でもうめいてるぞ。もう立ってられへんぞ。」「だから言ったやん。そうやで。もう、立てへんやろう。」

そのように答えたものの、私の予想以上に進行は早かったようです。地元のクリニックの先生にフォローしていただく予定で最終末になったら京都で私が診るということも視野に入れていましたが、もう今が最終末になってきていると理解しました。

この後、午前9時から私は動き、ケアマネに電話し、実家で二人で生活するのはたぶん無理、父に母の面倒をみるなんてことはまず無理でヘルパーに来てもらう程度のことでは済まない状態に一気になっていると説明しました。京都のサ高住には「突然今日入居を申し込んで今日入居なんて可能ですか」と事前に打診しておりましたら、「可能です」という力強い言葉が返ってきていたので「すみません、今日入居をお願いしたいのです。」とお願いの電話をし、了解をいただきました。東京に住んでいる三女である妹が「今日なら私は動ける」というので妹に移動の準備をお願いしました。タクシーで新大阪まで行って、新幹線で京都に来て、京都からはタクシーで10分程度、という移動を段取りしましたが、お隣の家のお兄さんが「仕事から帰ってきたら自動車で連れて行ってあげる」と言ってくださり移動の足が確保されました。

このようにして、8月1日急きょサ高住入所となりました。入所して落ち着いてから、母は痛みを訴え始めました。「お母さん、クリニックの先生がくれたお薬は?」と探しましたが、母は地元のクリニックの先生が処方してくれた「ワントラム」という準麻薬の痛みどめをもってきていなかったのです。持ってきているのは自分の好きな市販の鎮痛剤、ビタミン剤、湿布。大量の湿布とビタミン剤を前に私は愕然としました。この時、時間は午後9時。午後9時に処方を受けてくれる薬局は限られていますがあるのです。いつも熱心に訪問薬剤管理をしてくれるあの薬局。電話してみるとさすがに配達は無理と言われましたがすぐに麻薬の処方を受けてくださりました。私ももしかしたら必要になるかもしれないと事前に麻薬処方箋を作っておいたのもよかったのです。東京への最終の新幹線に乗る三女の妹を京都駅に送り、薬局に薬を取りに行き、母に医療用麻薬を飲ませたら、すぐに落ち着きました。そして次の日から医療用麻薬を使って母の活動性は低いものの落ち着いた日々が始まりました。施設の介護職員は親切で、なんといってもご飯がおいしいと喜んでいました。訪問看護師も来てくれて在宅療養のはじまりです。

父は透析の受け入れ先が決まってから後追いで入所することになりました。8月6日に父が入所することになりました。この日、私が京都から実家に父を迎えに行く車に母が同乗するという予定でした。しかし、朝から嘔吐。施設の看護師さんは「実家に行くのは難しいのではないでしょうか」というご意見です。しかし母は「行く」と強情です。「・・・まあ、止めることはできないでしょう。吐き止めの座薬を入れて行きましょう」と私は提案しましたが、母は座薬を断固拒否です。座薬を入れて実家に行くか、座薬を入れないのであればもう連れて行かないか、と迫りました。結局座薬は絶対に拒否、ということで連れて行きませんでした。連れて行かなくてよかったと今でも思います。

日帰りで東京から帰ってきてくれていた四女である妹が出発準備をしてくれて、私が実家に迎えに行き、様々な荷物を載せられるだけ載せて、荷物とともに父と妹が施設に来ました。母は少女のように父が来るのを待っていました。一通り荷物の整理が終わり、妹が「じゃあ、帰るね」と母にあいさつに来た時のことです。母の顔がひょっとこのように歪みました。おや?と思ううち、顔に痙攣が来ました。「麻痺や。」と妹に説明しました。「脳腫瘍のせいで、麻痺が起きた。」顔から始まったけいれんは肩に、腕に、そして足のほうまで波及し、全身性の痙攣になりました。施設の別の場所にいた父を呼んでくるように妹に命じました。痙攣はひどくなり、そのまま息が小さくなってきました。私は「ああ、このまま死ぬのだな。」と思い、母の手を握り、「お母さん、大丈夫、一人じゃないよ。一人じゃないからね。みんな一緒にいるよ。心配しないでね。そばにいるよ。」と呼びかけました。やってきた父と妹にも「声は聞こえてるから、お別れして。もう、お別れだから。」と言いました。父は「ヨシコ!死ぬなよー!」と叫びましたが、私と妹はほぼ同時に「なんでやねん、行かしてやれよ。」と二人で突っ込んでいました。そうなのです。この病気でこの状態で引きとめて何になるでしょう。肉体の苦しみが増していくのを引き留めて何になるのでしょう。私は日ごろから家族に肉体の苦しみを終わらせてくれる生の終わりというものはなんら悪いものではないのだと伝えていました。母もそれは理解していますし私の意見に大賛成でした。

母の呼吸はほぼ停止し、唇の色が紫色に変わり、舌が落ち込み、下顎呼吸になりました。下顎を上下させるこの呼吸は死を前にした生理的な呼吸です。私はああ、もう、これで呼吸が止まるのだなと思いました。父と妹はずっと母に話しかけお別れをしっかりとしていました。

しかし、母はそのまま呼吸が落ち着きました。とはいえこん睡状態です。呼吸は落ち着いたとはいえ危篤状態。亡くなる前に急ぎ母のきょうだいに電話をして知らせました。母の弟である叔父も妹である叔母も乳がんのこと自体初耳でしたので、驚き、見舞いに来ると言いました。来たところで母の意識はないし、そもそもあまりに遠方ではないか、来ていただかなくて結構です、と断ったのに来るとおっしゃいました。やれやれ。大阪府に住む叔母はまだしも四国に住む叔父が到着するのは夜中ではないか。変わり者の母の弟である叔父もまた違うタイプの変わり者です。母と同様言い出したら聞かないので止めるすべもありません。四女である妹は自分の配偶者に電話して状況を伝えていました。義理の弟になる妹のご主人が孫たちを連れて東京から京都に来るというので来たところでこん睡状態であるので来るには及ばずと説明をしました。孫たちを会わせたい、というのに対しても特に3歳の子にとっては怖いだけになってしまう可能性があるので会わせるほうがよくないのでは?と伝えたところ、お越しにならずとどまることにされました。日帰り予定だったがこの日泊まるように予定を変更するという妹には「呼吸が落ち着いたので、今日が最期の日となるかどうかわからない。数日かかることもあるので、いったん帰っては?」と勧めました。そして、今度来るときは子供たちを連れてくるというのはどうかと提案しました。妹は少し考え、それもそうだと帰っていきました。三女である妹にも東京から来れる時にくればいいと伝えました。長女である姉のご主人が荷物の残りを持ってきてくれる予定であったので義理の兄から姉に様子を伝えてもらい、姉にはまた近日中に来てもらうように伝えました。

叔母が来たのはこん睡になってから3時間くらいした夕方のことでした。このとき呼びかけに対してほんの少し反応がありました。私の夫と子供もこのとき合流しました。耳は聞こえているから、本人が聞いて気分を害することは言わないようにと注意しましたが、本人の真横で本人の悪口をさんざん言う父と叔母。「お母さん、おばあちゃんは耳が聞こえてるんでしょう?あんなに悪口言ってもいいの?」とうちの子がいうので「まあ、生きてるうちにどれだけ迷惑かけてきたかよく聴いといたほうがいいってことよ。」と苦笑しつついいました。常識的で散々母に困らされた叔母のご苦労は私もよく知っているので叔母さんありがとうございます、そしてすみません、悪口はいくらでも本人にお伝えください、と思っておりました。叔母は本人の前で怒りたいだけ怒る権利のある、それだけ苦労させられてきた人なのです。しかし本人の横で悪口は一般的にはお勧めしません。

叔父が来るのが午後11時ごろというので私はいったん自宅に戻り食事をとり入浴も済ませました。叔父が来る時間に合わせて施設に戻り、叔父を駅まで迎えに行きました。叔父は夫婦で見舞いに来てくれました。施設に戻ると驚いたことに母は意識がありました。なんと。乳がんで脳転移でこん睡になった人は何人か見たことがありますが、意識が戻った人を見たのは初めてでした。そして驚くべきことに叔父が来て、ちゃんと会話ができていました。さらに母はトイレに行くと言って歩いていました。驚きです。こんなことがあるもんだ。トイレから帰る途中洗面所で歯磨きもしていました。驚きです。

それよりなにより、かつてあんなに大喧嘩していた叔父と母は抱き合って再会を喜んでいました。私はホスピスなどでこれまで喧嘩した家族を見てきましたが、和解などあまりありません。人生最後の大逆転は珍しく、人は生きてきたように死んでいくものだと思いました。病室前まで来て本人に会わずに帰る息子さんや、連絡しても死んでから連絡をくれという家族などが一般的です。怒るには怒るだけの理由と歴史があるもんだ、というのが私の理解です。母と叔父が仲良しきょうだいだった大昔に一気に戻れるのに驚き、変わり者の二人を呆然と眺めるだけでした。あんなに激しく罵り合っていたのに・・・。この日は叔父夫妻は狭い部屋に泊まりそして翌日帰って行かれました。最期に和解、というか、何事もなかったかのように大昔の仲良しきょうだいに戻ってよかったねと思います。

この話、また続きます。