医療の進歩というものについて考えるとき、テクノロジーとしての進歩がもちろん思い浮かぶのですが、一方で医療の考え方というものも進歩していると感じます。
それを強く感じたのは2020年に介護初任者研修をを受講し、介護士の資格を取得した時です。(私は医師ですが、介護初任者研修修了者で、介護士資格ももっています)

介護の世界における考え方は非常に進歩しています。
「人を人としてその人らしさ大切にする」という考え方です。その人の個性を大事にしてその人の思いを大切にするのです。
当たり前と思われることかもしれませんが、医療の世界では「自分を人として大切に思ってもらえている」ことは少ないのが実際です。
この点で医療は介護から大きく後れを取っていますが、医療者にその自覚が全く(まあああーーーーーーっったく!)ないのが問題です。
医療者は介護者より先進的であると考えていることが多いのが現状です。

医療の現場で個人が個人として大切にされがたいのには理由があります。
それは医療は病気の治癒を目指すために、個人的な都合や欲求、要求を二の次にして治療を優先することがもとめられ、その結果、人としての個人的な思いが大切にされないことがごく当たり前になっているからです。

医療の世界では健康管理、安全管理、疾病管理など「管理」が当たり前の社会です。管理において管理者は、支配的な態度をとりがちです。
医療者が時には尊大で支配的で傲慢な態度をとることがあるのはこの「管理者」権限があるからだと私は考えています。

一方で介護の世界では「管理」ではなく「支援」が必要とされています。人が日常生活を送り暮らすのに必要な環境を整えることを求められるからです。
弱りを抱える高齢者などはこれまで当たり前にできていた暮らしが、弱りの中で難しくなってくる中で「どんな支援があればこの人は『当たり前に暮らせるのかな?』」という「ノーマライゼーション」の考え方があるのです。ノーマライゼーションとは障害などがあっても、障害を補う環境があれば「普通に」生活していけるよ、という考え方です。
弱りを抱え、うまくいかないことが増える高齢者の日常のどこを「支援」すると、この高齢者はうまく生活できるようになるかな?なんでもかんでもお手伝いするのではなく、残存能力を生かすための、その人らしい生活を送るための支援を考えるときに「管理」や「支配」は必要ではありません。

医療に「管理」が必要であるのは、医療が危険をともなうものだからです。
たとえば薬の中には化学療法に使うもののように毒性があるものもあります。これを扱うには管理が必要です。
手術には危険がともないます。したがって事故が起こらないように安全管理が必要です。
このように、緊張感をともなう医療行為に「管理」は必須です。その時には強い管理者権限を伴うこともあるでしょう。

しかしながら、医療は単に治療を目指すためのものだけではなく、健常な状態を維持する療養の面もあります。
そのときにもまた「管理」を持ち出されることがありますが、これは管理の行き過ぎというものだと私は思っています。
また管理に慣れた医療スタッフから、管理など必要ないはずの「療養」の場面でも支配的な態度を取られることもあるでしょう。これはまったく医療スタッフの不勉強と言わなくてはなりません。

医療者は治癒を目指すための管理、危険行為を避けるための管理は必要であることを認識しつつ、一方で、完治を目指すわけではなく病気とともに生きていく療養の場面では支配的な管理ではなく、愛護的な支援の考え方をする必要があることを今一度認識しないといけないでしょう。

このように管理から支援の必要性が認識されるようになる中で、患者の対応の中で意思決定についても考え方が変わってきました。

最初は「パターナリズム」という医療父権主義的な考え方です。paternalismとは、 親が子どものことを思いやるような温情主義であり、一方で強い立場の者が弱い立場の者を無知として意思決定に強い干渉をする態度とも考えられます。ペイテル(pater)は、ギリシャ・ローマ語に おける父親(パテル)という意味に由来します。Father的な、というような意味です。父という強くたくましく頼れる存在であると同時に、上から押さえつけるような力の両方の意味を持ちます。

次に説明-同意モデルが出てきました。インフォームドコンセントというものです。これももう定着して30年近くになりますね。
私が研修医だった1990年代半ばでは現在の「IC(informed consent)」は「ムンテラ」なんて呼ばれていました。ドイツ語でのMund Therapie (ムンドテラピー)のことです。英語にするとmouth therapy で、口で治すというものです。口車に乗せて治療にもっていくというような悪い印象があり、インフォームドコンセントに変わりました。

ちょっと脱線しますが、実は私自身は今自分がしている患者や家族への説明はまさにムンドテラピーであると感じています。言葉で癒す、言葉で勇気づける、言葉で人生の最終段階への道のりを歩く覚悟をうながす・・・・。やはりムンドテラピーは大事なんじゃないかな、そう思っています。

それはともかく、この医療情報を与えて同意を得る、というインフォームドコンセントも一方的な意思決定支援ですね。
医療者が情報を出し、それに患者が同意する。双方向のやり取りの中での意思決定ではありません。

そしてshared decision making (シェアードディシジョンメイキング)の概念が出てきました。
ここでは情報を医師が提示し、患者とともに意思決定を行うという概念です。ここで患者の個別性が初めて考慮される状態になってきました。
この患者の個別性の考慮の中で大切なのが「ナラティブ」という考え方です。
ナラティブとはナレーションと語源を同じくする言葉で「語ること」の形容詞です。ところが、ストーリーテリングではないのです。ストーリーテリングのような出来上がった物語を語るのではなく、より自由に一人一人が主体となって語るのです。語り手は患者自身であり、物語は変化し続け終わりが存在しません。

医療におけるナラティブは「物語と対話に基づく医療」という意味の「ナラティブベイスドメディシン」が重視されるようになってきました。と言っても、重視している人は重視していますが、ナラティブという言葉を知らない医療者も多くいます。先日精神科の医師に「ナラティブ」という言葉の意味をご存じか尋ねたところご存じなくて「こりゃあ、ナラティブが大切にされる医療の達成は遠いわ」と思いました。
実験や研究に基づいた「エビデンスベイスドメディシン」は客観性を重視した医療です。これは医療の質を担保するために非常に大切なものです。一方で個別性は無視されます。行き過ぎたエビデンスベイスドメディシンから個人の物語を重視して行うナラティブベイスドメディシンに流れが変わりつつあります。
シェアードディシジョンメイキング(情報共有しての意思決定)はこのナラティブなアプローチの上にあるものです。

ところで、私は「納得医療」を提唱しています。私が一人で提唱しているだけなので、なかなか広まりそうにないのが困ったところです。
「納得医療」はシェアードディシジョンメイキングと違うのか?というと、もっと患者サイドに偏っている意思決定支援です。

たとえば適切な医療よりはずれる、時に危害を与えうる選択肢となるなどの選択を患者が望んだ時に、医療情報を提供しながらリスクを知りながらも患者の選択を支援するような医療というものです。
肝不全患者で血小板減少があり出血傾向も危惧される方が腹水で苦しいから腹水を抜いてくれと言われた場合。出血のリスクを回避するため一般的には腹水穿刺はされません。でも・・・そのリスク回避は本当に患者さんのため?医療者のリスク回避ではないの?そこで、リスクのあることは十分患者さんやご家族とお話をしたうえで、安全に留意して腹水穿刺することは生命予後が短い終末期状態ではありうることだと考えています。もちろん話し合いの過程については透明性を確保し、多職種とも共有し、文書に残さないといけないと思います。
重症呼吸不全患者の喫煙について、叱責などすることなく、その人はタバコが大好きなのだという人生観を肯定しての医療支援。ただ酸素投与中は喫煙はしないように十分な配慮をしながらというようなもの。
患者さんが本当に望むことを十分な知識と技術で支援する医療。
ムントテラピーにより患者さんやご家族が安心して納得できる医療。これを納得医療として広めていきたいと考えています。

なによりこの納得医療を私自身がうけたいと考えています。