先日若い看護師さんとお話をしていて、「一番印象に残っている患者さんはどんな人ですか?」と尋ねられました。
私には今困っている患者さんがいましてね。この方についてこれまでで一番困っていて、その若い看護師さんにはその方のことについてお話をしました。

でも、本当の本当は一番心に残っている人は別の人々なのでした。
ただ、途中で曜日の変更などの絡みで主治医変更になってしまって最後までお付き合いできなかったので話が尻切れトンボになるなと思って今一番困っている人の話をさせていただいたのでした。

一番印象に残っている人々は一番最初に訪問診療で担当した人々です。「千春会病院卒業」のタイトルで少し書いた方々です。
京都府の南部、乙訓(おとくに)地域と呼ばれる長岡京市はかぐや姫の里、竹の町です。
のんびりとした田舎、高齢化は京都市内より進んでいる高齢化先進地域です。
ここには独居老人がたくさん住んでいて、支援を必要としていました。

一番心に残っている人たちのうちの一人は、認知症の寝たきりの女性。
介護拒否、医療拒否が強烈で、血圧を測るのも毎度看護師さんがその方を押さえつけて測っている状態でした。
自分で寝返りをうてない人で、独居状態。ヘルパー、訪問看護、訪問診療、近所に住む娘さんが朝夕に立ち寄ってみんなで支えている状態でした。
この方の何が印象深いって・・・。
えーと、言いにくいんですが、この人の唯一発する単語が、女性器の隠語だったんですね。
血圧を図ろうとすると「◯◯◯ー!」と叫ぶのですよ。
超ドン引きですよ。
この人の人生の最後に残った言葉がコレなのです。すごいものです。
この人は女性なのですが、なんでこんな単語がこの人の中に残ったものやら。
他の言葉は口には出さないのです。
察するにこの単語を叫ぶとみんなドン引きますよね。すると、介護の手が緩む。嫌なことをされたらこの言葉の爆弾を投げつければいい・・・そんな学習がなされたのでしょうか。
認知症のこの方、こちらの言っていることも理解されませんし、こちらに話しかけることもありませんでした。

さて、この方の診療が私に担当変更になりました。これまで抵抗されるのを押さえつけて無理やり血圧を測っていたのをやめてもらって、お話ししながら「腕をゆっくり伸ばせますか?」などゆっくりと誘導しながら「痛いことをしませんからね」と言いながら血圧を測るようにしました。そうすると、これまで全力で抵抗して「◯◯◯ー!」って叫んでいたのが、徐々になくなりました。
ご本人の思いもよらないようなことをすると「◯◯◯ー!」って言われるので、自分たちのケアの適否が明らかにわかり、訪問診療初心者の私は、この方にかなり鍛えられました。
当然認知症が高度ですから、私のことなど覚えているはずもなく、毎度毎度「初めまして」状態です。ですから診察の始めには「◯◯◯ー!」と叫ばれてしまいます。しかし、血圧を測り、聴診をし、手が冷たい時にはマッサージをしたり、一方的にですが「今日はお天気が気持ちいいですよー。」とお話ししたりなどしているうち、徐々に女性器名を叫ばれることが減ってきました。
高度認知症で、診察に行くたび毎度「初めまして」なのですが、認知症で記憶が障害されていても感情は豊かに生きています。
感情が豊かに生きている証拠に、初めまして状態の後は、だんだん慣れが早くなってきて、「こいつのこの感じは嫌いじゃない」と思われるのか、抵抗する力が速やかに抜けていくようになってきました。
訪問診療の担当になって2年くらいしたある日、「アリガトー!!」って言われてめちゃくちゃびっくりしました。女性器隠語以外の言葉を聞いたのが初めてだったからです。噂では娘さんに対しては「アンパン(が欲しい)」とか言うということは聞いていたのですが、自分に向かってプラスの感情を向けてもらえるなんて思ってもいませんでしたから、その日1日、神様に祝福されたような気分でした。

どんなに重度の認知症であっても、感情は生きています。それをみなさまに改めてお伝えしたいです。
そして、認知症の人は「忘れるから」と意地悪すると、記憶は残りませんが、感情だけが残りますから「なんでか知らないけど、この人、嫌な人、キライ」と拒否されることになりますし、そのあと、いいことをしてもいいことの記憶は残りませんから上書きされることなく拒否だけが残ります。くれぐれも認知症の人には意地悪をしないように。
上書きされないからこそ、日々丁寧に接するようにしますし、認知症の人はよく「バカにしてるんやろ!!」と激昂したりするのですが、自分がバカにされているということに非常に敏感ですから、敬意を持って接する、バカになどしてないということをわかりやすい態度で接するというのは大変重要なことです。具体的にはこんにちはやさようならの挨拶は丁寧にすること、すぐに忘れてしまうことはわかっていても丁寧に説明することなどです。
これらは全てこの方に教わったようなものです。この方に対して丁寧に接するほどに女性器隠語の爆弾が減り、抵抗が減るのを実感しました。
どうか、ご家庭で、職場で認知症の皆様と接する時には感情が豊かに生きていることを再認識されてお付き合いいただきますようよろしくお願いします。

さて、この方。訪問診療部門の編成の変更などで私の担当から外れ、元々の主治医にもどりました。でも、その頃には女性器隠語を叫ぶほどの元気もなくなっていました。2年の間に介護看護のスタッフにも「力ずくはやめてね。お願いしたら力を抜いてくれるよ」と伝えて女性器隠語爆弾をくらうことも減った結果、最後のひと言も忘却の彼方に行ってしまったようでした。その後、主治医、娘さん、みなさんでお話し合いをして在宅で独居でそのまま住み慣れた場所で最期まで暮らし、旅立たれました。

認知症患者さんの心の豊かさを教えてくださった大切な方でした。