ニュースピックス第2回。ニュースピックスは有料の記事ですので、若干文章を変えております。

2020/3/9
地域のネットワークが重要
大きな病院には地域連携室という部署があります。
以前は退院が決まったらそれでおしまいだったのですが、やはりその後の在宅でのお世話をもう少し病院がつなぐ必要があるということで作られた部署です。
その地域連携室が訪問看護や施設の紹介、急性期病院から慢性期病院へのリハビリ目的での転院を経てからの帰宅など、さまざまな道筋を考えてサポートをしてくれます。もう病床は足りないですから、どんどん退院させないといけない状況が日本の大病院あるわけで、そうした退院調整をして円滑にまわるようにしています。
その地域連携室に私は営業に行きます。医者が営業なんておかしいかもしれませんが、パンフレットを持ってご挨拶に行ったり、お預かりしていた患者様が亡くなったらご挨拶方々ご報告に行ったりします。そして「何かお役に立てることありませんか?」とお尋ねしてまた新しい患者様のご紹介をいただいています。
在宅医療では、地域のネットワークが重要です。自分一人が頑張っていればいいわけではないのです。地域の中で、多職種と連携して患者さんを守らないといけない医療です。
患者さんやご家族は、介護などでもいざ必要にならないと、どこにどんなサービスがあるのかわからないことが多く、誰かに紹介されるがままということが多いかと思います。そのような中で地域連携室が患者さんを在宅医にご紹介してつないでくださいます。
私のところに来る患者さんは、いわゆる積極的治療がこれ以上できないという方が大半です。通院が難しく、認知症が進んでいたり、歩行ができなかったりという「身体の弱り」がある人たちです。
この方たちが持っている「弱り」は、急性の病気による一時的なものと違い、少し回復することはあっても時間の経過とともに悪化していく「弱り」です。
ケアの力で多少良くなることもありますが、薬や手術などの医療では「治る」ことはないのです。
ですから、在宅医療では日々生活能力が落ちていく中で、薬や手術で治すのではなく、住み慣れた場所で暮らす日々のケアを中心にして支えていくのです。

でも実は、私は積極的治療が終わる時よりももう少し前に患者さんを紹介してほしいと思っています。
なぜならば「積極的治療が終了したから在宅のお医者さんに診てもらってください」と言われると、患者さんは「大病院に見切られた。こんな場末の医者に見られたくない」と裏切られた感と失意の中でスタートするのです。そんな中で信頼関係を作っていくのは大変です。
ところがまだ積極的治療中だったら、吐き気や便秘、むくみなどの、しんどいちょっとした症状があったとしても「在宅の先生にも診てもらいましょう。そのほうが訪問看護師さんへの指示ももらえるし」となり、外来通院と両立していけるのです。
こういう、例えば便秘の状況って、大学病院だと下剤をポンと出されて終わるのですが、効かないことがあっても、次の診療まで時間がかかってしまいます。
その間に私が入ることで、話を聞いて状態に合わせて漢方を使ってみたり、整腸剤で調整したりなどの細かい対処ができるわけです。
そうした日常の症状に寄り添えるのが在宅医療です。もっとそうした大病院での治療から在宅医療への移行を、スムーズに共存させていけるといいと思っています。

さて、人が亡くなる時のことをお話ししましょう。
ドラマを見ていると、病院で人が亡くなる瞬間といえば、ピーッとモニターが鳴るシーンですよね。
私は在宅医療に携わる前は、集中治療室(ICU)や手術室で働く麻酔科医でした。病院では患者さんの死が近づくと、心拍などのモニターをつけて監視することがほとんどです。
血圧や脈拍などのバイタルサインが異常を示すとアラームが鳴りますが、アラームが鳴っても実はスタッフはあまり関心を示しません。亡くなる間際に異常値が出るのは当たり前だからです。
ICUではたくさんの死を見てきました。その最期の時に病院では人工呼吸器を装着されて、家族と引き離されたまま死を迎えていきます。家族は1日に1〜2回、5分ほど面会時間に来て見て帰る。
心停止になると、病院では心臓マッサージが始まるのですが、家族に連絡がついて「もうやめていい」というまで続くのです。どんなに長い時間やっても「弱り」で亡くなっていく方は戻らないのですよね。
最期の時を、そんな心臓マッサージの痛い感覚を負わされ、家族と離されて、愛ある言葉もかけてもらえずに死んでいくのです。
そして連絡が取れて心臓マッサージをやめると、「ご遺体」と名前が変わって霊安室に運ばれていく……。このような病院での看取りの場面で、私は幸せな気持ちで見送ることはできませんでした。
一方で在宅では、モニターをつけません。モニターがあると、ご家族はモニターばかり凝視します。大切な患者さんとの時間がモニターで邪魔されるのです。自然な流れの中で旅立っていく患者さんとお別れをする時間が、機械に邪魔されるのをいいとは思いません。
最期を迎える患者さんの身体には、さまざまな変化が訪れます。呼吸が止まってもしばらく心臓は動いていますし、心拍が止まってもまたコトリコトリと動くこともありますがその状態を繰り返しながら、人は死に向かうのです。
ご家族にはこうした亡くなる前の生理的な体の変化などをお知らせした上で、
「すべて自然のものであり、怖いものではありませんよ。」
とお話しします。すると、ご家族は不安の中にあっても、納得して最期まで見守っていただけるのです。
「最期まで耳は聞こえるので、話しかけてあげて」と伝えます。
病院での最期のように自分たちの関わりがほとんどない中、モニターがフラットになって死が訪れるのではなく、自分たちが声をかけ、体をマッサージして見守って最期の時間を作っていくプロセスを経て死が訪れた場合は、死が訪れてもそれが日常の延長にある感覚が生じるようです。
病院での死とは違い、生活の中で、愛情をかけてもらいながらの死に伴走することを経験するうち、在宅での看取りの場面で私は悲しいながらも幸せな気持ちで見送ることが多いと感じていますし、ご家族様たちも泣きながら「よかった」と言ってくださることが多いです。

本を出して(『それでも病院で死にますか』セブン&アイ出版)、読者の方から一番驚かれたのが「最期の瞬間に立ち会えなくてもいいんですね」ということでした。

私が看護師さんにこれだけはやめてほしいと思っているのは、
「もうそろそろかもしれませんから、なるべくお家にいてあげてくださいね」
という一言です。
これを言われると、家族はシャワーを浴びていても、トイレに入っていてもドキドキしてしまいますよね。常に緊張を強いられるのです。そして実際に死の瞬間を見逃すと、年の単位で悔いを引きずることになってしまうのです。

「もうそろそろかもしれないけど、いつも通りでいてね」
と私は伝えます。
もしかしたらちょっとスーパーに行っている間に旅立っているかもしれません。しかし、それは仕方のないことだからと。
なぜかというと、いくら一緒にいても逝きたい人は家族がトイレに立った数分の間に逝かれますし、一人で逝きたくない人はずーっと誰もいなかったのにみんなが帰ってきた時にひゅっと逝かれたりする。それは、私たちには捕まえられない瞬間なのです。
だから、「もうそろそろだからそばにいてね」ではなく、「もうそろそろだけど自分の生活をいつも通りして。亡くなられたら、それこそ1週間は身動きが取れないほど忙しいから」と言います。それで、少し肩の力が抜けると思うのです。緊張しないでいいのです。
成長がわかり、終わりが見える子育てと違い、介護は無限です。いつ終わるかわかりません。その緊張の中に体も心もやられてしまう家族も多いです。
だからこそ、これからどんな「弱り」が起こるか、今がどんな時期なのかをお伝えし、知識を得てもらうことで少しでも安心してもらいたいと思っています。
お別れも、その一瞬だけではなく、近づいてきたらきちんとお話をしておけばいいのです。
その一瞬に立ち会えなかったことを責め続ける必要はないのです。