大切な人を亡くした時の悲しみについて、最近もまた話題に出ることがありました。

以前講演会のときの質疑応答で「大切な人を亡くした。十分にできることをしたつもりだが、きちんとまだお別れができていないように思う。とてもつらく悲しい。この悲しい気持ちをどうしたらいいのだろうか」ということを聞かれました。
この時の話を以前書いております。

私の個人的グリーフについて

私はこの時に自分のグリーフ(喪失の悲しみ)についてお話ししようとしました。
私のグリーフは、実は愛犬です。犬と人を一緒にするなと言われそうですが、実に悲しみが深いのです。同じ年の正月過ぎに犬を亡くし、その夏に母を亡くしました。
母のことについては実はあまり悲しみはなく、「よかったなあ」とさっぱりした気持ちで見送りましたし、その後もずっと心の中で母との対話は続いており、母が亡くなったというよりも、ただ離れて暮らしているときそのままのような感覚です。
犬は一緒に暮らしていました。そしていろいろあった母との関係とはまったく異なる関係で、ただただかわいらしく、癒しを与えてくれる存在でした。

穏やかで優しい犬でした。
小さな子供がしっぽを引っ張ったりすると、困った顔をして「お母さん、この子、どうにかして」とでも言いたいような顔で私をじっと見ているような子でした。
よその子供が遊びに来ると20kgのこの犬を散歩させたがるので散歩させてあげると、しっぽを下げて渋々という感じでゆっくりと小さな子に合わせて歩いてやっているのがおかしくてかわいらしかったです。
よい子のふりをするくせに陰では禁じられていることをすることもありました。ケージに入れずに寝てしまい、夜中に水を飲みに台所に行くと、気配がするのでリビングを見てみると、いつもは禁じているソファに寝転がっていたりしました。そして見つかると「しまった」とばかり、しっぽを下げてさっさとケージに入るのでした。
困りごとがあってうちに相談に来た人などにはそっとそばに来て寄り添ってくれる(ように見えて客にかわいがって欲しがっているだけ)犬でした。
普段は声を上げて鳴くこともなく、要求があるときは鼻をぴーぴーと鳴らして知らせるくらいで、静かで穏やかなので一緒に暮らしていてもストレスがありませんでした。見知らぬ人が来ると鳴くのだそうですが、私がいると決して鳴かないので私はこの犬が鳴いたところをほとんど見たことがありませんでした。
実家の犬は外犬なので、家の中で飼う犬というものがこんなに表情豊かでかわいらしく賢いものだとは知りませんでした。
本当にかわいい、賢い、自慢の子でした。

その子を亡くしてこの講演会の時で3年が経っていました。
私は犬の話をしようとしたところ、感情失禁が起こってしまい、泣き出してしまいました。
泣いて泣いて、話ができませんでした。
「(泣きながら)母のことは笑って話せるのに、犬のことは泣いてしまって話せません。
だって。母は迷惑ばかりかけるけど、犬はかわいいばかりですから。」
こう言いながらしばらく泣き、落ち着いてから話し出しました。

人は「悲しみを乗り越える」というけれど、本当にそうなのだろうか。
私自身は、今、悲しい気持ちを乗り越えてここにいるのではないと思っている。
この悲しみを経験する前の自分とは違う自分になっていると感じている。
悲しみを経験し、悲しみと一緒になった自分であると思っている。
悲しみを忘れることが大切だとは思わない。
確かに以前に比べると犬のことを思い出しても悲しい気持ちは小さくなってきている。
でもそれは自分にとってつらいことのように感じている。
自分は、この悲しい気持ちを忘れたくない。もし、忘れてしまったら、自分の中からあの大切な子が、大事な子がいなくなってしまうように思える。この悲しい気持ちを忘れたくないと思っている。
私は、悲しみを乗り越えるというより、悲しみとともに生きていると思っている。
悲しみを背中の荷物の上に載せて歩いているように思っている。時々休んで背中の荷物を降ろし、その悲しみを取り出しては泣き、ひとしきり泣いたら大切にその悲しみを風呂敷で包み、また荷物の上に大切に載せて、背中に荷物を背負って歩き始めるようなイメージを持っている。
こうして悲しみを経験する前とは別の自分を生きているというお話をしました。

何度も繰り返しブログに挙げていますが、自分の中でとても大切な話です。