アイキャッチ画像は、中秋の名月の月の出です。
空の上からの名月。キラキラしていましたよ。北海道の学会で発表しました。
さて彼岸になると涼しくなるものですね。
なんだか肌寒いと思って気温を確認すると、25℃で、「あら、25℃だと『熱帯夜』のはずなのに、涼しく感じるってことは、暑さに慣れちゃってるのね」と思います。
地球熱帯化、おそるべし。

さて、以前、亡くなったものへの思いについて書いたことがあります。
ちょうど1年位前になりますね。

亡くなった者への想い

本日、京都市左京区の関西セミナーハウスにて講演させていただきました。
その時の質問で、「亡くなった家族との別れが十分にできておらず、なお気持ちがつらい。これについてのなにかヒントはないだろうか?」というものがありました。

私は現在グリーフケアについて学んでいます。まだまだ初学者ですのでこれについて語ることはできませんが、自分の体験についてお話ししました。

母には申し訳ないし、母は笑って許してくれると確信していますが、私は母の死については笑いをもってお話することができるのです。
結構母はぶっ飛んでるし、私たち四姉妹は、母に関する困りごとについては笑ってネタにして吹き飛ばすという対処法を長い間かけて構築してきましたので、
母の言動やエピソードについては笑って話すのが常になっています。

一方で、愛犬の死についてはまだまだ悲しく寂しく、話題にすると、涙が浮かんできます。今もまた、ほら、涙が出てきましたよ。

本日、講演の後の質疑応答で上記のグリーフについての質問に、愛犬の例を出してお話しようとしたら、涙がこみ上げてきました。
母の死は笑って話せるのに、犬のことは涙なしには語れない・・・冷たいのか情が深いのか、いまひとつ掴めない私です。

犬の死から3年になろうとしています。
当初は締め付けられるような苦しさを伴っていた犬に関する気持ちは、もう少し和らいできました。
しかし、私の中では、この犬のことをつらく悲しく思う気持ちがいつか無くなってしまうのではないかと怖くなっています。
犬を思って涙が出る、これも困ったものですが、この悲しい気持ちがなくなってしまったら、私はもっと悲しくなってしまうのではないだろうか。

犬を思って胸がつらくなるほどの気持ち。

この気持ちがなくなるなんて、それも嫌だ。そんなことになったら、カルルが私の中からいなくなってしまう。

こうして書きながら、ボタボタ涙をこぼしています。カルルが私の中からいなくなったら、つらい。

今の私は愛犬をなくす以前の私とは別の私になっているのを感じます。
喪失の悲みを経験し、その悲しみと一つになった自分に生まれ変わっています。

日頃は犬を見ても悲しいと思うこともないし、日常生活の中で突如泣いたりすることもなく、ごく普通に犬のことを思い出すことも少なく暮らしています。
喪失の悲しみを、乗り越える、という言葉がありますが、乗り越えてその悲しみを置き去りにしてくるのがいいことなのかな?

そうではなくて喪失の悲しみという新しい荷物を自分の荷物の上にひょいと乗っけて、またひょうひょうと歩いていくというイメージではないのかな?
そして休憩時間にその悲しみを取り出して味わい、味わってはまた荷物の上に丸めて乗っけておく、そんな感じ。
グリーフの勉強はまだ最初の最初なのだけど、たぶん私とカルルの関係は心地よい悲しみというもので落ち着いていくのだろうと思います。

ちょっと恥ずかしい告白をしますと、本日の講演で、犬の話をしだして、私はボロボロ泣いてしまいました。
エグエグと泣きながら、冷静に自分のグリーフとの付き合い方をお話ししました。
質問者は「悲しみと一緒に生きていく、ということですね。先生の言葉、しっかりと受け止めました。」と言ってくださいました。

私自身は生きづらさを抱えた人間で、その生きづらさを克服するために多くの学びを必要としていたので私にとって生きづらさはある種の宝物になっています。
同じように私の中に一体化した悲しみは、私にとって無くなるととても寂しくつらくなるであろうもので、これもある種の宝物になりました。

喜びと楽しさで満ち溢れた人生も悪くはないけど、自分の生きづらさや悲しみを大切に思える人生、とても気に入っています。

LOVE, Kalulu。