2022年1月末に私たち4姉妹の育ての母のちゃあちゃんが亡くなりました。
ちゃあちゃんは幼くして父母と死に別れ、以後貧しい暮らしの中成人し、大阪府南部から堺市に嫁いできました。その町内にはうちの父が小学生でいました。その父は成長して結婚し、ちゃあちゃん宅の隣に家を祖父に建ててもらいました。
まだ若い、うちの両親は子育てに振り回されていたところ、幼いころから子守をしてきて子供の扱いのうまいちゃあちゃんが助けてくれ、幼児虐待気味であった母から姉を守ってくれました。次々と次女の私や三女が生まれ、母が「男を生まない」と責められ続けていたところ、そこに望まれざる女児がまた生まれました。四女は生まれて間もなくちゃあちゃんちに預けられてそこで育ちます。妹は実母と、ちゃあちゃんと、ちゃあちゃんの娘の「ママ」の3人の母の他にも、ちゃあちゃんの長男長女、3人の姉たちと多くの養育者にかわいがられて育ちます(実母は可愛がってはいませんが)。

ちゃあちゃんの家は、古い昔ながらの作りの家で、雨漏りもしていましたが、私はちゃあちゃんの家が好きでした。
家を貫通する土間を走り抜けて庭に行くことも。雨縁(あまえん)と呼ばれる日当たりのいい、木のぬくもりのある縁側も。広くはない苔むした中庭や、そこに洗濯物を干す爽快感と中庭からうちの実家の風呂場の窓が見えて昼から風呂に入る父の気配も。ちゃあちゃんの長女次女のお姉ちゃんの郷ひろみの特大ポスターも。長男の兄ちゃんの部屋の天井の月面写真のポスターと天地真理のポスターも。中庭のむこうの離れにある二層式洗濯機で、泡をすくって遊ぶのも。そして前庭には「ちび」という名の大型犬がいて、「ちび」は本当に賢くてかわいい犬でみんなの誇りであることも。

ちゃあちゃんの家の隅々まで、きれい好きなちゃあちゃんの配慮が行き届いていて、どんなに古い家でも居心地がいいのでした。
きらいなところはぼっとん便所くらいかな。
あれは好きになれなかったのではありますが、学校のぼっとん便所よりもずっとずっとましでした。なぜか、ぼっとん便所でも、ちゃあちゃんの家ならまだましだったと感じます。

そんなちゃあちゃんの家をちゃあちゃんの夫のパパが退職金を前借して立て替えました。
それまでは平屋だった家が、立派な2階建てになりました。2階には3人の子どもさんのための3部屋があります。長男、長女、次女の部屋ですが、次女のお姉ちゃんの部屋はうちの英子と相部屋です。当時昭和55年でおねえちゃんは18歳。短大に進学したお姉ちゃんは英子に「ママ」と呼ばせたため、歴代彼氏を驚かせることになります。(あなたの彼女に「ママ」と呼ぶ幼子がいたら、どう思います?笑)
今、うちの子が17歳ですが、彼女が赤ちゃんをみて「ママ」と呼ばせるほどの母性はないように思います。そう思うと、「ママ」にはちゃあちゃんゆずりの母性があるのだなあと思います。
うちの四女の英子はちゃあちゃんの家でのんびりと愛情たっぷりに育ちます。その後、妹はエキセントリックな母のせいで振り回されますが、そのたびに困ったことがあっても、ちゃあちゃん一家がサポートしてくれました。
ちゃあちゃんの夫のパパは私が小3の時に家を建て替え、中学2年生の時に亡くなりました。パパが退職金を前借して家を建て替えたというのは英断だったなと思います。もしこの時に立て替えていなければ、退職金を前借するということもできず、古い家に残されたちゃあちゃんたちは困ったことになっただろうと思うのです。
立て替えた家は以前の古い家とは違う居心地の良さがありました。それまではなかったダイニングテーブルが置かれたちゃあちゃんの家には、いつでも誰かがやってきてお茶を飲んでいました。

高校から寮に出て家から離れた私ですが、帰省するとちゃあちゃんの家にまず帰るのです。そして、自宅にはほとんで帰らず、ずっとちゃあちゃんの家で過ごします。その頃私は母との関係が超絶悪くなっていました。帰省すると嘔気が苦しくて、ずっとちゃあちゃんの家でトイレにこもって吐き続けていた時もありました。そんなときも、ちゃあちゃんはただ背中をさすり続けてくれました。
もう私は高校生で、体も大きくなったというのに、ちゃあちゃんは私と一緒に入浴し、小さい子供のように体を洗ってくれました。私は母との関係の悪さや受験の重圧などでとても不安定になっていたのですが「人にゆだねる」ということの大切さをこの時にちゃあちゃんに教えてもらったなと感じます。
親が子供にできる最大のいいことは、ご飯を満足するまで食べさせること、温かい風呂を用意すること、気持ちいい布団を用意することなのだなと今も思っています。ちゃあちゃんが私にしてくれたように。ですから、自分の子どもができたときに、受験とか教育とかよりも、おいしいご飯や温かいお風呂を大切にしようと思って育ててきました。

ちゃあちゃんはきれい好きで、いつでも居心地よく家を整えているのですが、それ以上にご飯がおいしいのです。なんといってもなすびの揚げ浸しがおいしいのです。それから定番の豚白菜の煮物。ほかにもあれもこれもおいしいのです。帰省するといつでもあれこれ出してくれます。そして「おいっしいでぇー。食べぇー。ちゃあちゃん、作ってんで。おいしいでー。」と勧めてくれるのです。
うちの父はちゃあちゃんの豚白菜が大好きなのです。ちゃあちゃんに豚白菜の作り方を習いました。「鍋に白菜を入るだけ入れたら、『だしの素』いれて、醤油を『とくとくとく』 と3回言うまで入れて、砂糖3杯入れる」のだそう。ちなみに砂糖3杯は大さじとかではなく、ちゃあちゃんちのスプーン3杯です。「ちょっと待って、醤油『とくとくとく』も砂糖3杯も基準がなさすぎる」と思うのですが、確かにその作り方で再現できるのです。
今、父は施設に入っているのですが、とにかく豚白菜を食べたいのだそうで、私は週2-3回作って持って行っています。一方でなすびのほうは、作り方を尋ねるたびにいうことが違っていて、結局いまだにちゃあちゃんの味は再現できていません。こんな醤油のとんがった味じゃなかった、とか、だしの味ではなかった、とか。

うちの実家は昭和のころから購入するおせちでした。それは父の会社の営業の一環として買わないといけないということもあったのですが、一方でちゃあちゃんの家はいつもちゃあちゃんの手作りのお節でした。私が今、ぶりを焼き、だし巻き卵を焼き、高野豆腐を炊き、そのように作るお節はちゃあちゃんのお節のかなり端折ったバージョンです。こういうの、子供は作るようになるのかな、と思います。作らなくても仕方がないけど、見たことがないと作る気にもならないよね、と思って作っています。

ちゃあちゃんの家のご飯を食べた子供はみんな素直で優しい子に育ちます。ちゃあちゃんの家の3人の子は言うまでもなく。私たち4姉妹は私は優しくないけど私以外はみんな優しいです。ちゃあちゃんの親戚の子らもみんな優しいです。もちろんちゃあちゃんのお孫さんたちもみんな今どきの子とは思えないほど優しいです。うちの子を当時中学生のお孫さんがコンビニに連れて行ってくれて、500円もするくじ引きで遊ばせてくれたり、お菓子を買ってくれたりするのです。うちの子に「あんたな、自分がお姉ちゃんたちにどんなに遊んでもらって優しくしてもらったかを覚えておきよ。自分より小さい子に、優しくしないとあかんよ」と伝えています。うちの4姉妹の子らも、ちゃあちゃんのご飯を食べて優しい子に育ちました。

ちゃあちゃんは2022年1月30日に逝去しました。
昼間、おばちゃん仲間と兄ちゃんの運転する車でスーパーに行き、買い物をし、帰ってきてから少し早い節分の太巻きを食べたそうです。いつも通り過ごし、そして急逝しました。
いつも「ピンピンコロリがええわ」と言っていて、しかし老人医療をする私が「ピンピンコロリは困るよ。ヨタヨタコロリにしてよ。」とお願いしていたのに、自分の望みどおりに旅立ちました。
前年2021年4月にうちの子が自宅に帰った時にちゃあちゃんは「これが最後かも」といつも嫌う写真にも応じてくれました。そして私にお小遣いをくれました。お小遣いなんて要らないけど、ちゃあちゃんが私にくれるものはなんだってうれしくて、本当にうれしい!って思いました。ちゃあちゃんは「容子ちゃんはしっかりしてるから」とあまり世話を焼いてもくれないのが寂しいと感じていたので、ちゃあちゃんにお小遣いをもらえるなんて、初めてでうれしかったのでした。
いわゆる「構ってちゃん」ではないちゃあちゃんが、「これで最期かも」というのはそれなりに信ぴょう性があり、私はその後も実家に帰るたびに「これがちゃあちゃんとの最期かも」を胸に思っていました。
この2022年のお正月はみな勢ぞろいで楽しくて、でも、ちゃあちゃんの衰えは明らかで、確かに長くないかも、あるいは長くても、ずっと弱り衰えた状態になっていくのかもと予想されました。
しかしちゃあちゃんは、自分の人生の幕引きはピンピンコロリと決めていたのだと言わんばかりの旅立ちでした。
私たちもそれなりに「これが最後かも」を思いながら会っていたので、自分が予想していたほどの衝撃はありませんでした。

人生で「この出会いがなければ人生が変わっていたかも」という出会いはいくつかあります。そのなかでもっとも原始的な「この人でなければ」な出会いが、ちゃあちゃんとの出会いでした。

ちゃあちゃん、ありがとう。
本当にこの世で人間としてやっていけるのはちゃあちゃんのおかげです。