2022年1月の最後に、私たち4姉妹の育ての母が旅立ちました。
前回、妹である尾崎家四女の英子の望まれざる女児生誕の話をしました。

それにしても妹英子はかわいい赤ちゃんでした。
京都では「きさんじ」という言葉があり、うちの子供はよく「きさんじな子やね」と言われたものですが、どうもご機嫌赤ちゃんをさしていう言葉のようです。
「気散じ」ということで、呑気で人見知りせず人懐こい様子を言うようです。
うちの子は英子の乳児期とよく似ていました。基本的にご機嫌赤ちゃんで、泣くときは理由(空腹、おむつ不快など)があり、解消すればまたご機嫌。英子の場合はちょっと泣いてもピンクレディ(という名前のデュオアイドル)がテレビに出ていれば機嫌が直るのです。
英子はルックスもかわいく、なんて美しくかわいい子だろうと私は幼心ながらに感心しておりました。
ご機嫌がいつもいいということについては今ならわかるのですが、元々の性質もあることながら、やはり主な養育者であるちゃあちゃんが安定していて、多くの養育者(ちゃあちゃんの子ら、私たち姉ら)が陽気であるという環境が良好であることによるのだと思います。
こんなかわいい育てやすい子が来た隣家。その頃高校生になっていたちゃあちゃんの次女が、英子をかわいがります。そして自分を「ママ」と呼ぶように育てます。
こうして英子には実母の「お母さん」と、養育母の「ちゃあちゃん」と、その次女の「ママ」の三人の母ができることになりました。
こうして英子は隣家で育ちます。小学校に上がるときには学習机も隣家に導入されました。
ちゃあちゃんの3人の子どものそれぞれに個室がありますが、英子の机は「ママ」の部屋に置かれました。一方で尾崎家には英子のものは箸一膳すらありません。尾崎家には行かないのですから。

ちゃあちゃんの話に戻りましょう。
ちゃあちゃんは、家政婦として我が家の家事を担ってくれていましたが、土曜日には私たち3姉妹(4番目の英子は常にちゃあちゃん家にいる)をちゃあちゃん家に泊まらせてくれました。ですから土曜日は楽しみな日です。小学校時代は学校から帰ってくると、給食ではなく、ちゃあちゃんの昼ごはんが食べられます。大抵玉ねぎのケチャップ炒めでしたが、その定番がまた嬉しいのでした。
当時ちゃあちゃん家は木造平屋で離れに長男の兄ちゃんがいる構造でした。母屋は3室。長女次女が寝る部屋、食事をする茶の間、そして奥の部屋はテレビがあり、リビング兼ちゃあちゃんとパパの寝室です。母家の3室と平行して通り土間があります。土間から部屋に入るのに高い(80cmくらいでしょうか)段差がある家。部屋から土間に出るときには、小さい頃はちゃあちゃんに抱っこしてもらうのがうれしかったです。自分で降りることもできるのですが、抱っこして下ろしてもらっていました。通り土間を抜けると中庭があり、離れがあります。中庭には縁側があり、縁側の突き当りはぼっとん便所です。通り土間には台所があります。ちゃあちゃんにおんぶしてもらいながら、ちゃあちゃんが卵焼きを作ってくれたのを覚えています。ちゃあちゃんの背中から天井を見上げ、暗い天井に開いたプラネタリウムのような光が美しいと思っていました。つまり、屋根に穴が開いているのです。当然ですが、雨が降ると雨漏りします。
お泊りの日に雨が降ると、大騒動です。ただでさえ私たち姉妹のために布団を多く敷き延べる必要があるのに、そこに洗面器等を動員して布団を守らなくてはなりません。「もう、今日は帰り!」とちゃあちゃんは言いますが、私たちは帰りません。実家よりちゃあちゃんのそばがいいのです。雨降りだと「大変」とは思うものの、それでもお泊りさせてくれるちゃあちゃんの大きさを子どもながらに感じていました。深夜番組をお兄ちゃんお姉ちゃんと楽しむのもまたエンターテイメントです。実家では教育熱心な母は(というか、世のお母さん方は)不道徳な土曜日の夜の番組を見せませんものね。それをちゃあちゃんはおおらかにしていました。

英子が生まれて1年ほどでしょうか、その頃、パパがその家を建て替えることを決めました。昭和50年代新築の家、それが今も残る第2世代ちゃあちゃん家です。雨漏りしない家はやや寂しいものですが、新しいうちが建つ喜びにワクワクしていました。大工さんたちにおやつを差し入れるちゃあちゃん。大工さんにおやつを差し入れるのは当時の常識かもしれませんが、いつでもどんな人にでも喜んでもらうことを考えている人でした。
この第2世代の家。ダイニングキッチン、テレビのある和室、ちゃあちゃんの寝室になる和室の3部屋、そして2階に3人の子どもたちの個室でした。きれいになったちゃあちゃん家。その家は、それまで以上に人の集まる家になりました。

長くなりますが、また続きます。