先日育ての母が亡くなりました。実母の逝去よりも大きな衝撃でした。
育ての母は「ちゃあちゃん」といいます。発音は「炒飯」のような「↗→」上がって下がる発音ではなく、「平坦」「淡々」「燦々」のような「→→」の発音です。お間違えなきよう。

ちゃあちゃんは昭和ひとケタ生まれ。「米寿を超えたのでお祝いしないとね」と言っておりましたがかなわないまま亡くなりました。
昭和のドラマ「おしん」を観たちゃあちゃんは「ちゃあちゃんな。おしんよりえらかった(大変だった)で。おしんはお母さんおるやろ。ちゃあちゃんはお父さんはおらんかったし、お母さんも九つのときに死んだんや。」と言っておりました。
親との縁が薄く、太平洋戦争の戦況激しい状況で親戚を頼って預けられても歓迎されない幼少期だったようです。それでもちゃあちゃんはその環境でも人とのつながりを大切にしていた子供だったようです。ちゃあちゃんが預けられた先ではちゃあちゃんより10歳下の子供ができました。自分が預けられたあとに生まれた赤ちゃんたちの面倒を見る生活。小学校もまともに通えないちゃあちゃんは自分の名前と住所くらいしか書けないと言っていました。それでも晩年亡くなるまで新聞はきちんと読んでいました。その時に預けられた先で生まれた女児男児はちゃあちゃんを「姉ちゃん」とずっと慕っていました。
ちゃあちゃんは、幼少期からずっと貧しい環境で育ち、預けられた先の家の縁で大阪府堺市の男性と結婚しました。昭和30年代でした。この堺市の漁師町、出島に嫁ぎ、そのまま一生を過ごしました。この時、うちの父が小学6年生。同じ町内に住む坊主で、ちゃあちゃんとは顔見知りの関係になりました。
昭和43年、うちの父が23歳、母が20歳の時に結婚。若い二人は見合い結婚でしたが当時としても早い結婚だったようです。父があまりにやんちゃ過ぎて、夜の街で遊び歩きツケの金額が多すぎたため、祖父が早く家庭を持たさなくてはと思ったのだそうです。
祖父がフグの卸業をしていた関係で山口県に縁があり、そこで23歳の男性にみあう女性を紹介するということで20歳の母に白羽の矢が立ったのだそうです。当時母は歯科衛生士見習い。歯科医の卵のボンボンたちとの交友はあったようです。お見合いの席で18歳から社会人として働く父と話したときに、父はボンボンたちとは違う「大人」の臭いがしたそうで、母は好感をもったのだそう。父は交際していた女性もいたので面倒な見合いだったそうですが、母が好感を持ち、祖父も好感をもったということで、父の思いはねじ伏せられて話がまとまったとのこと。こんないびつな状態で始まった新婚生活だったようです。
この若い二人に子供が生まれたのが母21歳。とてもじゃないですが一人で育てるなんて無理なことです。最初の子、つまりうちの姉ができてほどなく祖父はちゃあちゃんの隣に新婚家庭のための家を建てました。これがうちの実家です。子育てにアップアップする母を助けてくれたのはちゃあちゃんでした。ちゃあちゃんは当時中学生の長男と、小学生の長女次女の3人のママ。子育てに余裕のあるちゃあちゃんは、よその子供さんを一時預かったりもよくしていたようです。その延長でうちの姉もよく面倒をみてもらっていたのだそう。
我が家は商売をしている家ですから、男児を生むことを求められる時代。長女である姉、1年後に次女の私、さらに2年後に三女の妹とたてつづけに三姉妹を生んだ母は、祖父祖母から強い圧力を受けます。妹を生んだ時点で母は25歳。若く社会経験もなく三人の子供を育てるだけでも大変なのに、祖父の会社の事務員として働き、「男を生まぬ」となじられる、ということに母が大きなストレスを感じるのは当然かと思います。そのストレスは幼児虐待という形で現れます。
ちゃあちゃんは母から叱られ家を追い出され、泣きながらやってくる姉がかわいそうでたまらなかったと言います。ちゃあちゃんの家の戸をとんとん叩きながら「ちゃあちゃん、開けて。ちゃあちゃん、開けて」という、目の大きなかわいい幼児を無視することは到底できなかったと言います。祖父の会社の事務員として働く母はワーキングママです。ちゃあちゃんは我が家の家政婦として給料を得て手伝ってくれましたが、給料以上の愛情を私たち三姉妹に注いでくれていました。私は母に抱っこしてもらった記憶がありません。しかし、ちゃあちゃんには抱っこしてもらったりおんぶしてもらった記憶が多くあります。そしてちゃあちゃんの家の兄ちゃんと二人のお姉ちゃんたちには、兄、姉としてたくさんかわいがってもらい、ちゃあちゃんの夫のパパからはおっさんギャグ的な面白さもふくめて愛情をもらいました。
姉が9歳、私が7歳、妹が5歳のときに、母は4番目の子供を出産しました。この時は男女の性別もわかる時代でしたが両親は「女だったら妊娠続行する気がなくなるので」性別は言わないようにと医師に伝えたのだそう。そして、娩出された子が女児だったのを見て父は「ぞーっとした」ということでした。絶望の中で生まれてきた四女は、最終的には我が家の希望の星になります。
「また女児」という絶望感のなか生まれた四女は名づけすらもいい加減におこなわれました。上の3児が「〇〇子」なので「子」がつけばいいという基準で名前が公募されました。
「たらこ」「たばすこ」「ふらめんこ」などのアイデアがちゃあちゃんの夫のパパから提案されるほどの「どーでもよさ」でした。その中でまじめな私は「京子」を提案しましたが、小学2年生のまじめさですから「ど根性ガエルのヒロイン、京子ちゃん」というものでした。「たらこ」「たばすこ」「ふらめんこ」よりは断然ましな命名候補としてトップを独走、決まるかと思いきや「京子だと、次女『容子』と紛らわしい」と却下されました。その後、私の知らないところで「英子」と名付けられましたが、これも地元の「英彰(えいしょう)小学校」に通うことになるだろうという理由だったようです。
名前が「英子」に決まったと聞いた私は「どんな字?」と尋ねたら「英語の『英』よ」と母から答えられ、衝撃を受けました。オバケのQ太郎じゃあるまいし、「A子」とは!!!
あまりにかわいそうで「たらこ」「たばすこ」「ふらめんこ」と同じレベルではないかと憤り、「そんな名前はかわいそうだ」と怒りました。しかし母は「もう、役所にも届けた」というではありませんか。当時小学2年生の私は「英語」という漢字を知らなかったのです。「英彰小学校の『英』」と説明されていたらきっとわかっただろうと思うのですが。
そんな英子。かわいい赤ちゃんでした。生後2週間までは自宅にいたのですが、母が祖父の会社に出勤するとなった時に隣家のちゃあちゃんのうちに預けられることになりました。産後2週間で出勤というのも恐ろしい話ですが、そういう時代、そういう祖父、父、そして極端に負けず嫌いの母の関係がそうさせたのでしょう。
会社に行っている日中の世話をお願いします、ということだったのだろうと思うのですが、生後2週後のその日から四女が自宅に帰ってくることはありませんでした。四女は隣家で育つことになったのです。それは、彼女の人生で最大の幸運だったと私は思います。
長くなったので、続きはまたにいたします。
ちゃあちゃんの人生を書こうとすると、四女への愛を書かずにはおれません。