【看取りの安心勉強会 第2回】

人生において死にゆく家族を自分がケアして看取るということはあまり一般的ではないことです。普通は動けなくなれば入院し、たまに家族が顔を見に行き、少し話をして1時間くらいであっさりと帰り、病院に任せているうちに徐々に悪くなり死亡の連絡があって病院に行き死亡確認する、という流れをたどります。

しかし、在宅で看取りをするとなるとある程度の知識がないとどのようにケアしてあげればいいのかわからないことで不安になります。ここで私が在宅での看取りを前にご家族にお話することをまとめます。

<死ぬことは悲劇ではない>

人が生まれてきたときから最期の日を迎えることは決まっていることです。人が最後の日を迎えることは自然なことであり、悲劇ではありません。その別れが予期できないものであったり、あまりに急激であったり、痛みや苦痛を放置されたり、誰にも顧みられることがなく放置されていたりすることが悲劇なのです。

したがって病院で主治医が緩和ケアを意識した苦痛を取る治療をする場合や、在宅医療を導入してご本人の居心地のいい場所で最期を迎える算段をする場合には悲劇とは言えないと考えています。ただ、悲しく寂しく大変・・・・、ですが、悲劇ではありません。

しかし別れができていないと悲劇的な死となりえます。たとえば、事件・事故・災害などで朝「行ってきます」と言った人が夕方には帰らぬ人となった場合は悲劇的なものです。

そこまで極端ではなくても、医療の場で医療者は皆「もう、今日か明日かには亡くなられる」と予想しており、「ご家族もこんな間近で見ているからわかっているだろう」と勝手に思い込んで、ご家族には「そろそろお別れの時が近づいています」と言わずにいた場合、ご家族は死を予想されておらず、「突然の死」のように感じられるときは、これも非常に心が苦しくなる死と言えます。ほかにも予想外の急変による死、たとえば癌の患者さんで比較的安定していた方が、急性の動脈瘤破裂で亡くなったりするような場合も、「予想外の死」として受け入れがたいものとなります。

このように「予想外の死」は悲劇的なものとなりえますので、そうしないために「お別れをしてください」とお願いしています。

「お別れをして」というと、皆さん拒否反応を示されますが、「楽しい雰囲気でお見舞いして」ということです。楽しかった思い出をお話しする、若いころの武勇伝を語る、ファミリーヒストリーを伝える、などです。ご本人がお話できる元気がなくてもご本人はよく聞いておられます。お別れをきちんとすることはとても大切なことです。日々の生活の中でも一瞬一瞬が大切な時間であることを意識することにつながります。