8月6日に全身性の痙攣から昏睡になったにも関わらず、意識回復し、深夜にはトイレ歩行、歯磨きが可能になったものすごい回復力のお話でした。治療をほとんどしていないから元気だったということなのでしょうね。

この痙攣を起こす直前のことですが、父が京都のサ高住に入所するときの移動の車中で母の死後のことについて話していました。葬儀をどのような規模でどこでするか、墓所をどうするかなど。約20年前に祖母の葬儀をした時の父のグダグダぶりを思い出すと、自宅で父がダラダラしながら送っても違和感がないような形にしないと大変だぞと思っておりました。私は在宅看取りの後、自宅での葬儀を提案しました。堺の自宅は狭いのと葬儀の準備を堺に帰ってするのが大変そうなので京都の我が家でしてはどうかと申し出、父もそれでよいと答えました。また墓所については父は代々の墓に入れると言っておりましたが、祖父母と揉めに揉めた過去から「母はあんな祖父母と同じ墓に入りたがるだろうか?」という疑問がありました。そこで、この件について姉に母の意向を確認してもらうことにしました。

昏睡から回復し、意識が戻った母のもとに姉と実家のお隣のお姉さんが見舞いに行き、その時に葬儀や墓所について希望を聞いてもらいました。母は脳転移の影響で認知症状が出ていたのですがそれでもはっきりと「お墓、家のお墓に入りたーい。入りたいわあー。堺に帰りたいわあ。」と子供のように言ったのだそうです。父が透析治療に出かけて不在のときに言ったので父に遠慮していったのではなく本当の気持ちだろうと思います。

このような話を聞き、それでは、とお隣のお姉さんが堺の実家を片付けてくださると約束してくれました。自宅葬を京都ではなく堺ですることにし、墓所も代々の墓にすることになりました。周囲の方々の支援に恵まれてできることでした。ありがたいことです。

この「死んだらどうして欲しい?」という話、できるようでなかなか難しい話です。大前提として、本人が死ぬことをわかっている、さらには死ぬことを受け入れている状態でないと話すことが難しいのです。そして、聞き手と本人との関係も重要です。私がこの話を自分が聞くのではなく姉に任せたのは関係性の問題からです。母はものすごく怖い私を警戒していて優等生的で私から叱られない回答しか出さないのです。私自身ももうあまりこだわっていないとはいえ過去に様々あり母に心開いているとはいい難いものがあってうまく聞けないかもしれないという懸念がありました。一方で姉は非常にやさしい人で母も姉には本音を話すことが多かったようです。逆に母に舐められて煮え湯も飲まされているようですがそれでも姉は母に寄り添い、ときに母に流されそうになりつつもその母を引き留めるようなアンカー(錨)のような役割を果たしてきました。この姉にだったら母も信頼して本心を話せるでしょうし、姉だったら難しい話題にも踏み込めるだろうと思ったのでした。あとで話題にしますが宗教性の高さについても姉であればしっかり聞き出せるだろうという信頼もありました。

このような「死んだらどうして欲しい?」の話をするメリットはいくつかあります。生前に希望を聞いておくことで残された家族の意見の分裂が防ぐことができる、本人の希望に沿うことで遺族の満足度が高まる、本人の死の受け入れがよくなる、死後に丁寧に扱ってもらえる確証が得られることで本人が安心する、などです。

この話題は宗教性がカギになります。死後の世界の存在が明らかと考えている本人と家族でないとなかなか難しいと思われます。死んだ後の世界があるという前提なしでこの話題を出すならば、「生きてるのにもう死ぬ話をする」と嘆かれてしまうことでしょう。死後の世界がある前提であれば、死は無になることではなく、単に肉体を脱ぎ捨てて次の世界に行くだけのことだという認識になるので例えていうなら卒業式の計画について話し合うような感覚になります。京都は比較的死後の世界の存在を当然視する方が多いので私の仕事は割とやりやすいと感じています。

家族以外でこの話をするとすれば、本人と宗教家との間でなら話しやすいかもしれません。ただ、前提として信仰心があって宗教家を信頼しているということが必要です。宗教家としても自身の信仰心と死生観が問われるものとなることでしょう。

実家の隣のおばさんはまさにスーパー宗教家とでも言いたいくらいの看取り上手な方です。ご親戚が亡くなる前に「死んだらな、うちに泊まり。一晩泊めてあげる。自宅で亡くなった後、お父さんと一緒のマンションだとみんなお参りに来ないでしょう。うちで一晩過ごしたなら、あの人もこの人もみんなお参りに来てくれるよ。」と言って死後一泊させてあげたのだそう。この話を聞いて私はかなり驚きました。生前に「あなたが死んだらね」という話題をさらりと出せる宗教性の高さ。子どもを休みの時に他人に一泊させてもらうのでも気を遣うものなのに死んだ人を一泊させてもらうなんて相当気を遣うであろうに、それを「ねえさん、頼むわ。」と相手に言わせるだけの度量の大きさ。他にもさまざまな親戚を看取ってきたおばさんは死と生がとても近くにあることを知っている人で死を恐れません。冬のお通夜の時に寒いから亡くなったおっちゃんの布団に足を入れたらさすがに冷たかったわ、など、笑うところがわからない話をご披露してくれたりします。おばさんは私の将来の目標です。まず遠すぎる目標ですが、お隣のおばさんのような人をめざしている私です。