友人が京都を離れて実家に戻るという。
食事に誘ってお話をお聞きしたら、ご家族が悪性腫瘍で余命が長くないとのことで、最期の時間を共に過ごしたいということだった。
長く勤めた事務所を介護休暇ではなくやめてしまって帰るのは、他のご家族も年老いてきて、そばにいたいということかな、と彼女の静かな優しさを思った。
こういうターミナルケアの専門家を自認し、それなりに活動もしている私なので、食事をしたお店を出てすぐにうちのクリニックの事務所で「看取りの安心勉強会」を彼女のために開催した。開催なんて大げさな言い方だが、ipadひとつあればできることだ。
二人でipadをみながらお話をした。聞いてくださる彼女の眼には涙があふれつつも、笑いあり、いつもの「看取りの安心勉強会」の光景だった。
「安心しました」「もしかしたら私はちょっと気負いすぎていたかも」と言ってくださった。
昨日は共通の知人も彼女にお礼をしたいなとおっしゃっていたので、お花を連名で送り、また、妹尾崎英子の小説「有村家のその日まで」と私の著書を差し上げた。
彼女の職場に行くと、後任の方がいらっしゃったが、彼女はちょうど外出中とのことだった。お花と本を託して私は帰った。

実は少し前に突然うちの子が私に自分と祖母であるうちの母のことを話し始めた。
「お母さん。おばあちゃんが亡くなる時に、はなちゃん(姉の子。うちの子から見ると従姉)が留学中で、はなちゃんにはおばあちゃんが亡くなりそうって言ってなかったのに、はなちゃんの夢に出てきて『はなちゃん、頑張りなさいよ』って言ったって言ってたでしょ?私にはそんなことがなかったから『はなちゃんにだけ(おばあちゃんはお別れを言ったのか、の意味)か・・・』って思っててん。私な、受験の時に初めて金縛りにあってんけど、その時におばあちゃんの声で『ゆうちゃん、頑張りなさいよ』って聞こえてな、それで金縛りがとけてん。なんか、今思い出した。」
それを聞いて私は「ふーん・・・・。」と答えた。それ以上、特になんという感想もなかった。
受験ってあなた、もう高2なんだから1年半前のことを唐突に、とは思ったがなんとなく彼女の中で思い出したのだろう。

昨日私はオフ日で、診療は他の常勤医がしてくれているのだけど、朝から事務所で事務仕事をしたり、ありがたいことに中京区の民生委員の会合にお招きいただいて講演を聞いていただいたりして、その後スポーツクラブに行って走った。走った後ストレッチをしていたとき。さきの知人に妹の小説をお渡しすることをぼんやり考えていて、小説の中に妹がエピソードとして描いてくれている、先のはなちゃんの夢枕に立った話を思った。そして、うちの子の金縛りの時にも頑張れと励ましてくれたことを思った。うちの母は天使と悪魔が同居しているような独特の人で私たち子供への愛情は深かったのかもしれないが表現が適切ではなかった。私は自分を被虐待児だと認識している。それでも母なりの愛情はあったと感じるが、経済的な奔放さも含めて素直に愛情を愛情と感じがたいものがあった。
ストレッチをしながら、姉の子とうちの子の夢枕には本当に母が来たのだろうなと思い、母の自分勝手だがあっけらかんとして無垢な愛情は本当にストレートに孫に対してむけられたのだなと思うと、不意に涙があふれてきた。
スポーツクラブのストレッチマットの上で仰向けでストレッチをしているときだ。「まずい!」と思ったが、幸いマシンエリアには人がいない時間帯だった。私は起き上がり、顔を伏せて静かに嗚咽した。
母のことに関しては、ずっと泣けなかった。いや、時には泣いたときもあることはあったが、それでもなかなか泣けなかった。高校時代から大学時代にかけて、母のことでは精神的につらかった時期もあったのだが、そのような時には感情が固まりすぎて、泣くということ自体ができないことがあった。映画を見ても、悲しい話を聞いても、悲しいと思っても感情が固まって泣けなかった。うつ状態から徐々に回復してきた時に、泣けるようになって「あ、泣ける」と思ったものだ。
昨日は小説に描かれた姉の子のエピソード、うちの子の夢枕に立った話、そして母の命日に近いこの季節、母の戒名にはものすごく個性的な名がつけられたがその一部「夏雲」、走りながらマシンの上から空を眺めて夏の雲をぼんやり眺めて「夏の雲って、激しい積乱雲で本当に母のよう」と思っていたこと・・・・そんなことが一気に私に降りかかってきて、思いもよらず涙になったのだった。母は、母なりの愛で私たち4姉妹をみてくれていたのだということ、孫たちにも母なりの愛を向けてくれていたことを素直に感じられたし受け入れることができた。
私は母の看取りをしながらも、母とは温かく交流することができなかった。病床でも母はいつも通り自己中心的だったし、その直前まで超やばい経済活動をしていて、脳転移のおかげで暗証番号がわからずやばい振り込みは阻止されたが、母の看取りは美談などにはできなかった。私以外の3姉妹が母に素直に感謝したり愛情を向けたりできるのが不思議でたまらなかったし、私は母とうまく打ち解けて別れができないこともそれはそれで「生きてきたように死んでいくのだから」といつも患者家族に言っていることを自分にも適応して、温かな別れができなかったのも、それでいいのだと思っている。
それでも母の死から4年が経って素直に母の愛情を愛だと感じることができたのは、自分自身の中でグリーフケアが進んできたのだなと実感した。
昨日は7月29日。脳転移で入院した母は一切の治療を拒否して、この日自宅に退院したのだった。退院してきた母に向かって、父が車を運転してどこぞに連れていけと泉州弁で怒鳴りたて、母が物憂げに「運転なんてできないわよ」と言っている光景に「運転なんてできるわけないだろう、この人、『週単位』で死ぬねんで・・・」とクラクラして、怒りが込み上げてきたのを思い出す。
そうか。スポーツクラブで泣いて泣いて、そしてすっきりした7月29日は、私の看取りの始めの記念日でもあり、看取りの終わりの記念日でもあったのかもしれない。

私は本とお花をお渡しした、去り行く友人にメッセージを送信した。「妹の小説は本当にお勧めなので、ぜひ読んでください。」と。