2017年8月に亡くなった実母の納骨を、先日実家のある堺で執り行いました。
父は母が亡くなったサ高住(サービス付き高齢者向け住宅)にそのまま入居しており、堺の自宅には週末に帰るくらいなので、無人の家にお骨がぽつんとあるのは寂しいなあと思っておりました。ですから一年経たずに納骨ができてよかったと思いました。
父は納骨を機に堺の自宅に戻ることも検討しており、それはそれで生活弱者である父が独居で透析生活を続けることになり、これまでとは違う心労がきそうです。

さて、母が亡くなってかれこれもう一年。

母の乳癌の脳転移がみつかったのは去年の7月です。
一切の治療をしない、と決めたら母の死は一気に近づくことはわかっておりましたが、それは予想以上の速さでした。私の予想は「週単位」で、6-8週くらいだろうか、と思っておりました。
堺で一ヶ月かもう少し過ごして、それから歩けるかどうかのギリギリのタイミングで京都に来るか、あるいは堺のクリニックの先生に最期まで診ていただきながら私が堺に通うか、などを考えておりました。
2017年の7月22日に友人、というと自分にとって尊敬すべき存在の相手ですから少々違和感がありますが、友人と飲んでて、飲んでるうちに悲しみが押し寄せてきて泣いてしまいました。その時には母のことと、そして死後一年経ってご家族見舞いに行った、亡くなった患者さんたちのことと一緒に思い出してあれもこれも一緒くたになって泣いておりました。友人がそっと手を握ってくれていたことがとてもうれしかったです。人が悲しい時にただ傍にいるだけということ、ただ手を握っているだけということの力の大きさを改めて実感しました。私が母のことで声をあげて泣いたのはこの時くらいではなかったでしょうか。
その次の週の7月29日に自分たちのこれからについて何もわかっていない両親に「この人、あと数週間で死ぬんだからね!」と半泣きになりながら本人たちにとってぐっさりくる言葉を投げつけたときには「まあ、9月頭くらいか。もしかすると8月中。」と思っていました。
結局8月17日に亡くなったので、わずか3週間ほどの終末期でした。

葬儀はごくごく簡素でした。祭壇もなし、というと、驚かれるかもしれませんが、実に実に簡素に済ませました。そしてそれがとてもすがすがしく気持ちのいいものでした。

出棺にあたってお花をお供えするとき、姉妹たちが「ありがとう」と母に言いながらお花を入れているのを見て、「ありがとう?!なぜ!ありえない。母が私に『ありがとう』というなら受け入れるけどなぜ私がありがとうと言うことがあろうか。」くらいに思っており、しかしながら何らかの言葉もかけずに花を入れるのも大いに問題であろうと思い、悩んだ頭に浮かんだ言葉は「お母さん、行ってらっしゃい。」でした。

私が怒りすぎるのか、他の姉妹が大らかで優しいのか、いろんな意味で自由すぎる母に私はほかの姉妹の怒りに比してことさらに怒っておりました。怒る理由はきちんとあって、それはそれなりに自分の中である程度整理がついていることながらも、だからといって母に心開いているものでもないという状態でした。しかしというべきか、そしてというべきか、怒る一方で、母に対しての思慕もありました。母はなかなかに面白い人でもあり、魅力的な人でした。私は彼女の偏った考えに大いに影響を受けているのも事実です。特に宗教観や死生観にはかなりの影響を受けています。ただし私は特定の宗教団体には所属しておりません。ただただ、神仏の加護に感謝するのみです。
死後の世界についても母は常に饒舌に語っておりましたから、もうちょっとして(数年~数十年?)私がこの生の世界を離れたらすぐに再会することになりましょう。

再会の予定がある私としては、母を亡くしたからといって何も寂しいことはなく、むしろ現世の彼女の大迷惑がこれにて終了したことで大いに助かっているというところです。また再会するときにはきっとこれまでの迷惑のことを忘れていろいろ話すのだろうと思います。

そんなわけで母へのはなむけの言葉はまた会いましょう、という気持ちやお先に行ってらっしゃいという気持ちを込めての「行ってらっしゃい」だったのですが、これほど母に対してぴったりな言葉もあるまいと改めて思うのでした。

この話、長くなるので続きます。