そしておおよそ葬儀から一年が経ちました。

今、私はいろんな意味で母に「ありがとう」と言いたい気持ちになっています。生前の母に対してはありがとう、という気持ちは相変わらず出てこないのですが、その死のぬくもりをこの手にしっかりと体験させてくれたことを本当にありがたいと思います。
母の死で新しいことを知ったということはほとんどありません。あるとすると、いつも看護師からの連絡で聞いていた「顔面から始まり、上半身、全身へと波及する痙攣」の実物を母の急変時に見ることができたことくらいです。あとはすべて知っていることでしたので、「身内の死で初めて患者家族の気持ちがわかった」なんてこともないのです。これまでだってよくわかっておりましたし、実際に自分も体験してみて「日ごろ言ってるとおりだなあ」と感じました。

それでもなお母がその死を体験させてくれたことにより、他の人に話すときに「私の母を亡くした時にはこうしました、ああしました」という実体験話となって、聞き手の強い共感を生むようになったのです。正直親子関係は複雑で愛憎相半ばというより、100%大好きで100%大嫌いという200%の感情と言うのでしょうか、とても複雑な相手でした。患者との関わりが感情的に難しいご家族にも「家族なのに許せない気持ちがあるのも、人間だもの、アルアル」と伝えることができ、その言葉が患者家族の心を和らげているのをみて、あの母との関わりがあったからこそこの言葉が真実味をもって伝わっているのだと感じると、やはり「お母さん、ありがとう」と思うのです。

実は私は2017年1月に飼っていた犬を亡くしまして、こんなことを言うときっと皆さまからお叱りを受けることになるのはわかっているのですが、同居していた犬との別れのほうが、離れて暮らしなおかつ摩擦を生まないように最低限の接触になるように気をつけていた母との別れよりも比較にならないくらい喪失感が大きいのです。
だって、犬はひたすらかわいく健気で、今でもあの犬がそばにいてくれたらなと思うのです。母は接触があるときは決まって問題をもってやってきますし、口を開くと突拍子もない宇宙人の話や、某民族による陰謀や、何月何日に天災が起こるがこの時にどこぞの国のどこぞに避難しておくと助かるだの、現代社会における汚染は誰ぞの陰謀により蔓延しているだのの話をするので健全に育ってほしい我が子にはあまり近寄ってほしくないわけでした。・・・まあ、そんな突拍子のなさも含めて母の魅力だったりするのですが。
犬のことを思うと涙が浮かんできます。今も。母を思っても泣けてくることはありませんでした。「私って薄情?でも、犬のことでは泣けるよ?薄情なのかな?」と思うのでした。
でも、これも薄情というのとは違うように思うのです。一つには母とは必ず死後会える、というか、母はきっとものすごく喜んで迎えに来るという確信があって、お別れじゃないから、というのがあります。犬は迎えに来てくれないかも。もう犬とは二度と会えないかも。もう一つは現世の生活になじむ母ではなかったけど、あっちできっと水を得た魚のように生き生きと暮らしておるわ、これも確信があるから、というのがあると思います。
それでも今、この文章を書きながら母への感謝の思いを綴りながら涙が浮かんできて、去年の7月22日以来、初めて母の件で泣いたのでした。