今日の話題は医療介護とは関係ない話です。
私の子どもは中学3年生で高校受験を控えております。
志望校はいろいろあり、まだ絞り切れていません。あの学校もいいな、この学校もいいな。ただし合格できたらね。
まあ、どこかにはきっと合格するのでしょうけど、自分が入りたいなと思う学校に次々不合格を食らうことも考えられます。そこで「滑り止めを考えてください」と指導されました。
まあ、いわゆる偏差値的にはここらあたりかしら、というところを滑り止めと考えたのですが、もっとよく考えたら家から一番近い学校が割といいんじゃないのということでそちらを滑り止めとすることにしたわけなのですが。
「滑り止め」と言われる学校はきっといい気分じゃないですよね。あと、自分にとっては第一志望と思って入学してきたのに、他の人が「自分は行きたいところに落ちてこんな滑り止めに来てしまった」と言われたら在学生にとってもいい気分ではないですよね。
そう思うと滑り止めって概念そのものがよくないのかもしれないなと思ったのです。
子どもと「滑り止め」について話し合ったときに「『滑り止め』なんて言うと、気分を悪くする人がいるだろうから、『ここも志望校』って言い方にしようね」ということに決めました。
本音を言うと自分の子どもは思い通りの学校に合格するかどうか難しいのではないかと考えております。でもそれでもいいのかもしれないとも。勉強だけがすべてではないし、希望通りのことにならなくてもそれもまた彼女らしい生き方を模索するきっかけになるかもしれない。
入学試験で不合格となり、自分の第一志望以外の学校に行くことを「受験に失敗した」という表現をする人がいますが、これは学校に対しても在学生に対しても失礼な表現ではないかと思うのです。受験に失敗した、のではなく、受験で思い通りの学校に進学することができなかった、のだと思うのです。
そして思い通りの人生でなかったら、「もうおしまい」なのか?というとそんなことはありませんよね。あの時思い通りにならなかったから仕方がなくこのようにしたら、今につながるこんな道に出たのだ、ということはよくあることではないでしょうか。
「思い通りにならない人生から広がる豊かさがある」と思います。
大学受験で不合格になって浪人した。思い通りにならない人生。元々生物系の学部に行きたかったが、浪人中のあれこれにより、生物系であるが最初から考えに入れてなかった医学部に進学することになった。思い通りにならないところから広がる豊かな人生になりました。
そのほかにも思い通りにならないから仕方がなく始めたことにより、そこから広がる豊かなものがあろうと思います。
私のように元気なものが言うのはおこがましいことですが、患者さんの中には「この病気になって初めて気づいた日常のありがたさがある」とおっしゃる方がおられます。これも思い通りにならない人生から広がる豊かさの一つだと思います。
思い通りにならない、思っていたものが手に入らないという状態。手にしたいと思うものが手に入らない状態。その状態で空いている手に思いもかけないよいものを手に入れることがあるということなのでしょうね。
うちの子どもが思い通りの人生になるかどうかはわかりません。でも、自分の思い通りにならないことが即不幸なわけではないと伝えたいです。思い通りにならないと落ち込みますけどね。それは仕方がないことですね。人間だもの。