【看取りの安心勉強会 第5回】

<見守るということ>

食事が入らなくなってきたのですが、胃瘻を選択せず、中心静脈栄養の適応でもなく、点滴をしていたけど浮腫が出てきたので点滴による脱水補正も中止、となってきたとき。

このような状況になってきますと「もう、終末期になってきました。あとはご本人の満足度を高めるケアをしながら見守っていきましょう」と説明します。

見守るってどうすることでしょう。見捨てたり見放したりするのとどう違うのでしょう?

たとえば「見放し」。宿題をしない子供のことを例に考えます。「お母さんはもう知りません。宿題をしないで学校に行って先生に怒られればいい」と言って子どもと宿題に関して興味を切り捨てればいいのです。これは自分の興味から切り離すので精神的にはラクです。

一方見守りをする場合、「ああ、違うのに、そこはそうじゃない、ああ、いっそ口出ししたら楽なのに」と思いながら子どもが自分でするのをじっと見守る、というような状態です。とても精神的にエネルギーを必要とする行為です。

終末期における見守りも同様です。病院に連れて行ったらいいのではないか、点滴したらいいのではないか、もっと食べるように口に押し込んでやれば食べるのではないか、励ましたらいいのではないか、代替治療でこういうのを聞いたからそれをしたらいいのではないか、などいろいろバタバタとやってみたくなりますが、残念ながらそのいずれも特にいいことにはつながりません。

病院に行ってもこの状態になれば、特に医療としてできることはないのですが、ご家族の要求にこたえて入院はさせてくれますし、形ばかり点滴はしてくれます。しかしそれは浮腫を増悪させるだけになり、呼吸困難感が増えるだけに終わる、ということが圧倒的です。代替治療も効果があるものもあるかもしれませんが、この時期にしたとしても効果はありません。それよりも自宅から病院への移動により消耗するほうが問題です。

人はバタバタするほうが楽なのです。一生懸命している感じがして。あれやこれやバタバタしたい、でも、それをせずに、じっと「見守る」、このことがどれほど精神的にエネルギーを要するか。「もう知らん」と放置すれば楽でエネルギーは使いません。アクションとしては「特に何もしない」「ただ見ているだけ」というほぼ同じに見えることですが精神的なエネルギーの面で、見放しと見守りは全く異なるのです。見捨て、見殺しについては見放し以上にもっと見守りから乖離してきますね。見守りとはまったく違うものです。

「見守り」とは、大切なことのために、じっと我慢してみていること、心のエネルギーを使うこと、なのです。